林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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ぴのちお2

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「ピノチオ」がしばしば登場する井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫、一九八七年、カバー=熊谷守一)を取り出して見た。永井龍男のエッセイ集も何冊かあったのだが、だいぶ前に整理してしまったのでこれは参照できない。単行本の書影はこちら。



それではまず「文学青年窶れ」より。

《阿佐ヶ谷将棋会は、荻窪、阿佐ヶ谷に住む文学青年の会で、外村繁、古谷綱武、青柳瑞穂、小田嶽夫、秋沢三郎、太宰治、中村地平などが会員であった。それが毎月会合し、後になると(昭和十五年頃になると)浅見淵、亀井勝一郎、浜野修、木山捷平、上林暁、村上菊一郎などが入って来た。元は阿佐ヶ谷南口の芋屋で兼業する将棋会席を会場に借りていたが、人数が殖えると阿佐ヶ谷北口のシナ料理店ピノチオの離れを借りて将棋を指し、会がすむとピノチオの店で二次会をするようになった。》

別のエッセイ「阿佐ヶ谷将棋会」によれば阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは昭和四年頃だそうだ。ピノチオを会場にしたのは昭和八年から。次は「天沼の弁天通り」の伊馬鵜平のことを描いたくだり。

《そのころピノチオの主人は、もうジローさんからサトウさんに変っていた。私がぎこちない飲みかたをしていたためか、サトウさんは奥に入ってしまった。》

「そのころ」というのは昭和九年であろう。「ジローさん」は永井龍男の兄弟永井二郎。青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯』では《作家永井龍男の弟で元報知新聞記者の永井二郎が経営していた店である》となっている。そこに上林暁の「支那料理店ピノチオにて」が引用されているので孫引きしておく。

支那料理店ピノチオの飾窓には、名は知らぬが、いずれ支那の海で獲れたにちがいない大魚の鰭が飾ってある。あたりの店はみなあけ放って電燈が明るいのに、ピノチオだけはいつも硝子戸が閉っていて、支那料理店特有の薄暗い色に光が籠っている。

「阿佐ヶ谷将棋会」にもどれば、昭和十五年十二月六日にはピノチオで「阿佐ヶ谷文芸懇話会」というものも開催された。木山捷平の日記にこの日のことが詳しく出ている(これは略す)。「阿佐ヶ谷将棋会」はこう続ける。

《このころピノチオの店の主人サトウさんは、この商売を止すことにすると言っていた。その前の年あたり、毎晩のように飲みに来ていた常連客の一人が、岩手県久慈のマンガン鉱山を買わないかとサトウさんに持ちかけた。》

この「このころ」は昭和十五年であろう。次の年になってマンガン鉱が暴騰、さらにタングステン鉱山の運営も任されたサトウさんは《御伽噺の花咲爺のように俄分限者になった》。

《ピノチオの料理は、シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭、クーローヨー五十銭、ツァーチェー二十銭である。シナ蕎麦は出前で届けても、一人前十銭は十銭に変りがない。口銭は二銭しか入らない。マンガン鉱なら寝ころんでいて花咲爺である。「この店、もう止すことにしたいんです」と言い難そうにサトウさんが言った。
 私はピノチオが店を止すと、阿佐ヶ谷で借金のきくところが無くなってしまう。止されては困るので「君は常連客のことも少し考えろ」と言った。
「そう仰有るだろうと思っていました」
 サトウさんはそう言ったが、思い止まるというのではなかった。
 ピノチオの店は左隣の時計屋が権利を買って、次に土地の金持で岡さんという人が買い、岡さんの倅のシゲルさんというのが経営した。元のサトウさんは杉並の東田町か西田町の方の空地に新築した住宅に入った。》

昭和十六年の三月に阿佐ヶ谷将棋会が復活したときにはシゲルさんの代になっていた。木山捷平は「太宰治」で昭和十六年十一月十七日の阿佐ヶ谷会はいつものピノチオでなく阿佐ヶ谷の喫茶店「エコー」で開かれたと書き、もしかするとピノチオはすでに閉業に追い込まれていたのかもしれないと回想しているという(青柳いづみこ前掲書による)。

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『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、二〇〇七年八月一七日)に掲載されている「阿佐ヶ谷会」関係地図の一部。初期ピノチオの場所が示されている。本文に収録されている岡崎武志「阿佐ヶ谷・荻窪文学散歩」には村上護『文壇資料 阿佐ヶ谷界隈』(講談社)に拠りながらこう書かれている。

《『阿佐ヶ谷界隈』によれば、この店があった場所は「阿佐ヶ谷駅北口、いや改札は南口しかなかったから、踏切を渡って北側へ出たところの左側、現在はアーケードのある商店街となり、その取っつきのあたり、新光堂という洋品店の場所にあった」と書かれている。しかし、すでに現在、その「新光堂」がない。「ピノチオ」についての話題を集めるだけで、一冊の本ができそうだが、いまは、「井伏鱒二に会いたいと思えば、誰でもピノチオを覗くのである」という阿佐ヶ谷界隈』の記述を引いておくことにしよう。

ちなみに青柳いづみこは前掲書で

《中杉通りの拡張で跡地はなくなってしまったが、阿佐ヶ谷駅北口の現西友ストア前附近にあり、天祖神社内に住む日夏耿之介や杉並区内を転々としていた岸田國士も常連だった。》

としている。


『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』に掲載された写真。昨日掲げた古本屋地図に川村書店が載っているが、戦後の「ぴのちお」はこの店のすぐ近所だったようである。

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岡崎氏はこの後に続けて河北病院にも触れている。

《ここは寺山修司が最後を遂げた(一九八三年)場所として有名で、河北病院と言えば寺山、となるが、ほかにも徳川夢声がやはりここで亡くなっている。地元では「死にきた病院」などと陰口を叩かれているらしいが、文学的にはきわめて由緒ある病院である。私なら、大病を患ったらここに入院したいと思っている。中央線人の本望でしょう。》

河北病院(現在は河北総合病院)にそんな由緒があったとは…。





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by sumus2013 | 2014-10-12 20:00 | 古書日録 | Comments(9)
Commented by U氏です。 at 2014-10-12 21:56 x
楽しく拝見しています。
青柳いずみこさんの言われる「中杉通り」の拡張は、そんなに昔のことではなく、以前は尼寺通り(コンコ堂のホームページでは「松山通り」となっていますが)をバスが通っていました。阿佐ヶ谷駅から北へ200mほど上り、世尊院に突き当たって左にクランクして尼寺通りに入っていったのですが、世尊院が東にズレるように移転して? 練馬方面へのバス通りが真直に通ったのです。

寺山修司が河北総合病院で最期を遂げたについては、ぼんやりした記憶ですが、谷川俊太郎の縁だったと思います。谷川の従兄?が河北に勤務していて、主治医となったのではなかったでしょうか。
Commented by sumus2013 at 2014-10-13 08:27
Uさま いつも有り難うございます。手近の年譜によれば寺山は昭和54年と56年に肝硬変のため北里大学付属病院にそれぞれ一月ほど入院していたようです。58年4月22日に意識不明となって河北病院に入院し5月4日に亡くなっています。
Commented by sumus2013 at 2014-10-13 08:35
阿佐ヶ谷駅北口の中杉通りの拡張は1971年3月から行われたようです。81年3月に開通式が行われています。
Commented by 岡崎武志 at 2014-10-13 11:01 x
いやあ、なつかしい。川村書店の写真、店頭均一で漁っている男二人。左がぼくで、右がナンダロウくん。店頭に立っているのが御主人。このときまだお元気で、むかし区議会議員をしていた、とおっしゃっていました。川村もいまはありません。
Commented by 岡崎武志 at 2014-10-13 11:02 x
あ、いま気づきましたが、川村の御主人もいまは亡き、みたいな書き方になってしまっていますが、ご存命かもしれません。失礼な書き方になってしまいました。
Commented by sumus2013 at 2014-10-13 19:49
阿佐ヶ谷の南側に住んでいたので、川村書店も、そういえばあったな、というくらいの記憶しかありません。中央線の南側にある栗田書店は、通り道だったためよく覗いてました。
Commented by U氏です。 at 2014-10-14 06:47 x
川村書店は、店舗の裏に小さな庭があって出入り自由だったような記憶が(違っていたらごめんなさい)。栗田書店は、床がむかしの学校の教室の床のように木で張ってあったと思いました。
Commented by sumus2013 at 2014-10-14 10:15
栗田書店だったと思いますが、いつもご主人がラジオ放送を聞いておられました。ロシア語講座が印象に残っています。
Commented by sumus2013 at 2014-10-14 17:48
川村書店さん亡くなられたようです。
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