林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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介川緑堂ふたたび

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木崎愛吉(好尚)『家庭の頼山陽』(金港堂書籍、一九〇五年六月一九日)。某氏より頂戴した一冊。家庭の頼山陽ってなんじゃ? と少々いぶかしく思って読み始めたら、これが面白い。家庭人としての頼山陽(というよりも「生身の頼山陽」と言うところだろう)を主に頼山陽の母である梅颸(ばいし)の日記を拠り所として記述している。この日記がすこぶる面白い。

今、検索してみるとお茶の水女子大学ジェンダー研究センターから『頼梅颸日記の研究』(二〇〇一年)にまとめられているようだ(「頼春水『春水日記』および妻梅颸『梅颸日記』にみる儒家祭日の記述」)。

この内容については改めて触れるとして、本日は介川緑堂について少しばかり追加情報を記しておきたい。介川緑堂は先日紹介した岡田半江の漢詩、そのなかに登場していた秋田藩の重鎮。その緑堂にご縁のある方よりお手紙を頂戴した。

《いつもブログ楽しく拝見しております。先日、岡田半江の漢詩に「介川緑堂」の名前をみつけたときには、ビックリしました。小生の父が介川家の出身で、「緑堂」さんは我家のなかの偉人だったからです。》

時折、このブログで何気なく取り上げた人物の子孫の方々よりメールを頂戴することがあるが、緑堂さんからそういったリアクションがくるとは予想していなかった。同封されていた新聞記事、笹尾哲雄「漢詩人介川緑堂」(『秋田さきがけ』一九七一年一〇月九日夕刊)のコピーからウィキの「介川通景には見えない記述を拾っておく。

緑堂は、藩の勘定奉行として江戸、京都、大阪の三都を何度も往来した。とくに大阪の藩邸にあって藩の財政の赤字を解決するために、豪商から借財することにつとめたようだ。緑堂は詩文に長じ、京都に出ては頼山陽、篠崎子[ママ、小]竹などの文化人と交遊し、詩の応酬をしている。
 彼の「詩稿集」には、頼山陽をたずねた折りに作った次のような七言絶句が収められている。》

《[天保十一年病気により全ての役職を辞した]官職を辞したのは病気のせいもあるが、それよりも自分の意見がいれられなかったことが原因のようだ。彼は内政の改革を考えていたというが、実現できなかったのだ。》

《中年以降は雅懐を漢詩に託し、暇があればいつも詩作に没頭したようだ。とくに晩年は、詩人として生きたように思われる。
 秋田図書館の東山文庫には、緑堂の「詩稿集」や「遺稿集」、あるいは自筆の漢詩がたくさん残っている。また自筆の「勤年数」(履歴書)、「遺珠」(メモ帳)なども保存されていて彼の人柄を知るうえで参考になった。

緑堂詩稿」からとして引用されているうちの一首。


   帰郷途上

  壮心老去漸消磨
  其奈天涯為客何
  憶此千山将万水
  幾回郷夢夢中過


《彼の墓は城下の永源院(曹洞宗)にあった。永源院という寺は、天徳寺に隣接する塔頭(たっちゅう)であったが明治維新の際に廃寺になったという。

ということで本日の一冊『家庭の頼山陽』にも緑堂さんは登場していた。文政十二年九月。

《七日 七つ下りより雨 秋田家中、介川藤[東]馬来る、送別留別の詩共出来る。》(梅颸の東游日記第四)

上述の新聞記事にこのときの留別詩と思われる漢詩「東還過京訪頼山陽先生」が引かれているのだが(わけあって引用はしない)、梅颸の記述からすれば文政十二年九月七日作と見ていいだろう。木崎の註にはこうある。

《介川東馬(藤馬は蓋し誤写)は緑堂と号し、秋田藩大阪蔵屋敷の留守居たり、詩を能くし小竹、松陰[後藤松陰]等諸儒と善し。松陰の送序に山陽の批正ある稿本、余嘗て久松澱江氏より借り写取れり。小竹も亦送序ありし由、松陰の文に見えたり。

ついでに岡田半江が登場する部分も拾っておこう。文政十二年四月二十四日。

《廿四日 雨 五つ頃着(大阪)よどや橋備前屋安平といふ宿に、皆々一緒に上る。夕、篠崎、後藤など来り、約して半江宅(天満橋北詰)へ行く。料理物、小竹持参。先方にても、数々ちそう。夜、母子奚にとまる。行がけ、かごなり。》東游日記第四)

木崎が頼山陽遺稿からこのときのことを叙した漢詩を挿入しているが、詩は省いて前書きだけ引いておく。

《下江、同小竹主人及諸子、訪半江居士、居士新獲明人書七言絶句、在壁、依其韻同、是夕雨、居士留我宿焉》

居士新獲明人書七言絶句、在壁」というところが何ともうらやましげでよろしい。

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by sumus2013 | 2014-05-17 21:10 | 古書日録 | Comments(0)
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