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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


季刊湯川 No.6

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『季刊湯川』第六号(奥付は一九七九年八月、目次では九月になっている)を恵投いただいた。有り難いことです。これで七冊揃った。

表紙 藤田慶次
p.3―12   永田耕衣「面を横に―田荷軒追憶―」
p.13―23  シュペルヴィエル 多田智満子[訳]「ミーノータウロス」
p.24―36  ヴァレリー・ラルボー 岩崎力[訳]「女名前について」
p.37―44 有田佐市「ムッシュTについて 5」
p.45―53 一九七八年一月~十二月新刊書籍動向(有田佐市)
p.54―56 刊本広告(註:目次に記載なし、ノンブルの記載なし)

やはり巻頭の永田耕衣の文章が強烈。耕衣が自らの本作りについて回顧している。処女句集『加古』(鶏頭陣社、一九三四年)についてこのように書く。

《このさい本の立派さというのは、贅を尽した見せかけの世俗的な風姿にあるのではなく、飽くまでも著者の精神の在りどころを証してやまぬ質実剛健なものでなければならぬ、という当節私なりの本願が幾らかでも成就している立派さであった。いわば本は著者の人間に他ならないのだ。「書は人なり」というが如く、「本は人なり」である。》

第二句集は袖珍本(ミニチュアブック)『傲霜』(私家版、一九三八年)。

《私はこのあたりから、田舎者のくせに「本を作る」ということに異常な情熱を覚え初めていたのである。しかし、「本は人なり」という悟達の確信に達したのは、まさにこの冗文を書く途中である。寿岳文章先生の著書を愛読したり、近来、湯川書房の仕事、身辺ではコーベブックスにおける渡辺一考君の仕事を、本最高の醍醐味として求心的に眺め且垂涎尊敬してきたということが、今日我が悟達の地盤であることは申すまでもない。》

そしてこういうふうに締めくくる。

《本を作ろうと志す者は、先ず、既製最高の善本を永遠に見据えるべし。そして制作者自身、独自未完の願望的イメージを、この鹿の如く「面を横に」凄絶に、怨み、憎み、眺め刺し尽くす要があるかと思われる。
 簡素であれ、豪華であれ、本物の本というものは、著者、印刷者、製本者(出版者)の三者が、あらゆる諸条件を最善の友として、「出会いの絶景」的な一如ぶりを証そうとする世界からのみ現成する。それ故、本物の本は、著者を超え、印刷者を超え、製本者(出版者)を超えて、この三者一如の心身を荘厳し尽した存在となる。「本は人なり」といいうる本物の本は、そういいうる真義のうちに、三者渾一の人間的容顔がその体温ごめに馥郁と漂いやまぬ、妖しげで身心的な何物かである。》

三者というのは「?」だが、本は一人では作れない、ということは本当だろう。作れないというよりも(すべて一人で作る人もいます)、分業になっているからこそいい本ができるような気がする。
by sumus2013 | 2013-12-13 21:03 | 古書日録 | Comments(2)
Commented by yf at 2013-12-14 10:24 x
 湯川さんは耕衣さんに私淑し、倣って左書きをものにし、『正法眼蔵』や佛を描いて送りつけて来たことがあります。 昨年、ここに掲載された「極狭私的見聞録」は湯川さんがPR誌「みすず1.2月号」のアンケートのように「季刊湯川」でも、それも本だけでなく映画、音楽、LPなどのアンケートを掲載したいと、友人間で始めたものです。湯川さんは2年で「手元不如意」を理由で挫折、小生には求め、他の人達とは続けていますが、始めの頃の人はもう故人になっています。
Commented by sumus2013 at 2013-12-14 20:19
そうですね、そういう季節になってきました。
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