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小説 永井荷風小島政二郎『小説 永井荷風』(ちくま文庫、二〇一三年一一月一〇日、カバーデザイン=多田進)読了。小島政二郎には『眼中の人』(岩波文庫)という傑作がある。忌憚のない語口においては本書も劣らないだろう。ただどうして「小説」と冠が付いているのか、事実ではないと言いたいわけでもないようだし、関係者をはばかって「小説」としたのか、それならもっと他に書き方もあったろうに、と思ったりもする。一部分、小説に仕立てたところもあり、この調子で書いてもよかったかもしれないが、全体としては評論ふうのエッセイといった体裁だ。実際、一九七二年に校正まで終えていたこの作品は永井家からクレームがついて出版されないままになっていた。ようやく二〇〇七年に鳥影社が刊行。そしてちくま文庫に入った。 芥川龍之介を描いた『眼中の人』もそうだが、本書は小島の荷風へ向けた一方的なラブレターのようなもので、それは同時に自叙伝にもなっている。小島は永井荷風が慶應義塾でフランス語を教えていたときにその生徒であった。荷風の礼賛者でもあった。その小島が自ら直に見た荷風や周辺の人々から聞き出した生々しい出来事を率直に綴っている。それは見ようによっては、恋情が余って落胆深く悪罵に変じるという感がなくもない。しかしその根底には荷風への愛があるためただの暴露ではなく「荷風論」に成り得ているとも思えるのだ。 なかで「なるほど」と膝を打ったのは、あるいは荷風好きの人には常識なのかもしれないが、荷風の作風の変化が幸徳事件の囚人馬車を目撃した日を境にしていることである。小島はその論拠に荷風の「花火」を挙げている。 《しかし、私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たることについて甚だ羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃から私は煙草入れをさげ、浮世絵を集め、三味線を引[ママ]き始めた。》 荷風は「無力」を江戸趣味への隠居で中和しようとした。開き直った。そうできるだけの財産もあった。小島はそれが良くなかったと断言している。モーパッサンに刺戟を受けて試みて来た「小説」ではなく古くさい「物語」しか書けない荷風になってしまったと。しかし考えてみると、荷風の江戸趣味は中学生の頃からであって、この告白をそのまま鵜呑みにすることは出来ないようにも思う。ちょっとカッコ良すぎる。 それはともかく、出版に関することではいろいろ参考になる。籾山書店主と荷風の関係、『三田文学』創刊の事情、森鴎外との関係などなど。荷風の発禁本については丸木砂土のくだりが印象に残る。 《ところが、「ふらんす物語」ばかりは、どうした訳か、発売と同時に禁止されて、全部破摧されていまった。だから、内務省に納本された二冊しか残っていないと噂された。 事実、私などはどんなに苦労して手に入れようとしたか知れなかったが、全然無駄だった。水上瀧太郎などは、後年作者から直接借覧してこれを筆写して持っていた。 太平洋戦争中に、秦豊吉またの名、丸木砂土が鎌倉の私の隣へ疎開して来た時、彼が「ふらんす物語」の原本を持っているのを初めて見せてもらった。 「ヘエー、どうして、これを手に入れたの?」 不可能に近いことをして入手したに違いない、そのイキサツが知りたくって、私は聞いた。 「これは内務省に納本された本の一冊だよ」 「だって、そんな本が我々の手にはいる訳がないじゃないか」 「それが、手にはいったんだから尚貴重じゃないか」 そう言って、彼の友達が内務省の警保局に勤めていて、「ふらんす物語」のことが忘れられた頃、コッソリ盗み出して来たのだという話をしてくれた。 「幾らで手に入れたの?」 文壇三吝嗇の一人である彼が、一体どのくらい出したのか興味があった。 「タダさ、タダで貰ったのさ」 彼は「帝国文庫」の「西鶴全集」上下本も持っていた。今と違って、これ以外には「西鶴全集」はなかった。しかも、無数にある伏せ字に、こまごまと全部書き入れがしてあった。 私は彼のビブリオメニア(書籍狂)の一面を初めて知った。その上誰かから原本を借りて、一々伏せ字に書き入れしたことは、大変な骨折りだったに違いない。その点をも、彼の好学心に私は敬意を表さずにいられなかった。》 「好学心」というのとは少し違うような気がするが……。 この写真は雑誌『文学時代』第一巻第六号(新潮社、一九二九年一〇月一日)の口絵写真として掲載された「諸家の家族」より「小島政二郎氏・夫人・令嬢」(部分)。女優なみの器量と見える夫人だが、本書にも登場している。小説家は食えないものだ、それを証明するために小島は妻を島崎藤村の家へ連れて行く。 《一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、露地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素過ぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前へ連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。》 この話はよほど気に入っていたとみえ、終りの方にもう一度繰り返されている。 文庫の表紙に使われているのは荷風の自画像。「日和下駄」冒頭部分。荷風の絵は何点か実見したことがある。筋のいい素人という感じだ。『荷風全集』(岩波書店、一九七四年)の年譜によれば《「美術学校の洋画科を志望したが納れられず[略]」(『十七八の頃』)という談話の実体は未詳》となっている。画家になっていたら、さてどんな絵を描いたろうか、興味は尽きない。
by sumus2013
| 2013-11-29 20:49
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Comments(3)
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