林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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花森安治の素顔

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河津一哉+北村正之『『暮しの手帖』と花森安治の素顔 出版人に聞く20』(論創社、二〇一六年一〇月一六日、装幀=宗利淳一)インタビュー・構成=小田光雄。トークの準備のためにこの本も読んでおかねばと思って急ぎひもといた。なかなかよくまとまっていて読みやすい仕上がりになっている。「出版人に聞くシリーズ」は貴重な聞き書き、好企画だ。

今回、気になったのは花森の女装について。というのはこの本を読む直前に『文藝別冊花森安治』(河出書房新社、二〇一一年)を読み返していて矢崎泰久「スカートをはいた名編集者」(談)に注目していたからだ。そこで矢崎は少年時代に出会った「スカートをはいた小父さん」が花森安治だったと述べている。中学の頃、友達だった米田利民の家へよく遊びに行ったが、米田の母が花森の妻の実姉だったため、その家で何度か花森に会ったという。

《その花森さんという小父さんは変ってて、スカートをはいていたんです。フレアで、プリーツが入っているようなスカート。チェックだったかな。ワンピースではないんだけど。要するにスコットランドの楽隊がはいているようなやつ。僕はびっくりしてね、男が……って。
 しかも花森さんって、すね毛がすごいんですよ。毛むくじゃらの足がスカートの下から見えるんです。》

《しかも、花森さんは髪にパーマネントもかけていて、ときには原色の派手なスカーフを巻いたりして。》

本書ではこの花森のファッションについてつぎのように語られている。

《北村 花森は当時の男性としては珍しい髪型のおかっぱ頭だった。聞くところによると、あのおかっぱ頭も銀座の美容院でカットしてもらっていたようで、そういう意味ではとてもおしゃれだったと思います。
 その一方で、私は花森が背広を着たところを見たことがないのですよ。冠婚葬祭はもちろんのこと、パーティでも背広は着ない。
『一戔五厘の旗』の読売文学賞受賞式でも、白いジャンパーで出かけていたし、どこにいくのでもそれで通していた。》

《逆にみんなが学生服を着ていた大学時代は背広を愛用していたらしいし、みんなと同じような格好はしない、それもひとつの美意識だったんでしょうね。
 それからおかっぱ頭のこともあるんでしょうが、スカート姿で銀座を歩いたというのは伝説で、誰も見たことがないというのが真相です。》(花森の美意識)

これを受けて司会の小田氏が酒井寛『花森安治の仕事』(朝日新聞社、一九八八年)を引き合いに出している。その該当部分を酒井本から直接引用しておく。

《大橋や編集部の古い人たちによると、花森は、幅のひろいキュロットや、スコットランド兵でおなじみのキルトをはいていたことはあった。花森に原稿や絵を依頼に行った他社の編集者もそれを見ているし、すでに、花森は有名になっていたので、このスカート話は広まった。》

《髪も、のばしていた。床屋へ行くのが大嫌いで、定期的に銀座の編集部にきてらっていた床屋がこなくなり、そのときから髪をのばし始めた。うしろで束ねて、ポニーテールのようにしていたときもあるし、天然ウェーブの、おかっぱにしていたときもある。外へ出るとき、ネッカチーフをかぶったり、首にまいたりしていた。》

矢崎少年が見たのはフェーリア(ゲール語でキルトのこと)だったのである。銀座から世田谷の松原までキルト姿で通っていたということになる。オシャレと言えばこれ以上オシャレなスタイルはないだろうし(たぶん今でも奇抜だろうし)、何より女装ではなかった。正真正銘の男装である(女性がフェーリアを身に着けるようになったのは最近だそうだ)。

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1954年7月暮しの手帖社で(撮影:樋口進)


もうひとつ言えば、おかっぱや長髪は大正から昭和初めの男子にとってはそう珍奇な頭ではなかった(村山知義やフジタを思い出そう)。女装だってそう珍しくはなかったような気がする。とくに芸術家を気取る連中にとっては(あの富士正晴だって長髪だったのだ)。戦争によってバサリと切り捨てられたはずの戦前の頽廃文化は深く花森世代の心に巣食っていたのかもしれない。敗戦によって打ちのめされた花森は、一転、そんな青春を取り戻そうとした(?)。少なくともファッションの「自由」を社会通念によって自己規制することはキッパリと止めた、そう思えるのだ。

ただし、戦時中に国民服が提唱されはじめるといち早くこれを着込んで背広の杉山平一にこれからはこれだよと言い、みんなが国民服のようなものばかりを着るようになると、そんなものには見向きもせず、

男はズボンにゲートル、女はもんぺが日常というなかで、花森は「紺木綿の、縦じまの、つなぎの服」を着ていた。あるときは、「フードつきの上着」を着ていた。かぶると、防空ずきんになった(牧葉松子の回想)

というのだから、その天邪鬼ぶりは(ファッションに限らず、その思想においても)時代がどうこうではない、天性のものなのかもしれない。


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# by sumus2013 | 2016-12-03 20:32 | おすすめ本棚 | Trackback | Comments(0)

花森装釘?

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文明社の湯浅克衛『焔の記録』。FBで某氏がアップしていた花森安治の原画である。所蔵しておられるとのこと。お許しをいただいてこちらにも掲載させてもらった。『花森装釘集成』にはこの文明社の文芸叢書が五冊掲載されている。その他にこんな本もあったのか! と驚いたのだが、検索してみると高橋輝次さんが「古書往来」に次のように書いておられるのを見つけた。文中《この号》とあるのは雑誌『文明』昭和二十二年四月号。

ところが、である。この号の15頁を見ると、「小社出版物に就て」という囲み記事が載っており、最初に「既に御承知の如く用紙事情逼迫のため出版界は危機におちいつております」と書き出されている。続けて、小社は幸いにも前述の著者の本五冊を昨年中に上梓できたが、「尚既に読者諸氏に御約束申し上げました数冊が製版出来のまゝ印刷することが出来ませぬ状態でございます。校了になつてをりますものに野口冨士男氏「うきくさ」湯浅克衛氏「焔の記録」荒木巍氏「」宮内寒彌氏「四國巡禮」の四冊がございますが、用紙事情の打開と共に順次上梓の運びと致したいと存じます。」と告げている。
 『文明』は書誌によると、翌昭和23年3月に廃刊となっており、おそらく同じ頃、文明社も倒産してしまったと思われる。これらの校了にまでなり、タイトルも決っていた小説集は皆、日の目を見られなかったことになり、著者たちもさぞ無念の想いを抱いたことだろう。

62.新刊『古書往来』で書き残した事ども -文明社の未刊本など-


同じく某氏の所蔵する「夏」の扉絵原画。どちらも用意が整っていながら出版されないままに終わった……文明社に限らず幾多の作品が同じ運命をたどったに違いないとは思うのだが、なんとも惜しいことである。

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***


もうひとつ。牛津先生から質問が届いた。正宗白鳥『我が生涯と文学』(新生社、一九四六年二月一日)は花森安治の装釘ではないでしょうか? 長年にわたって疑問に思っておられるという。薄冊中綴じながら味のある装幀だ。版下は木版のようにも見える。

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装釘集成には新生社の単行本として舟橋聖一『闇から夜明けまで』(昭和二十一年五月)、中野重治『日本文学の諸問題』(昭和二十一年五月)そして雑誌『女性』創刊号と雑誌『新生』二巻四号(どちらも昭和二十一年四月)が掲載されている。花森と新生社の関わりがいつ頃始まったのか興味あるところだが、二月刊行ということはその少し前に仕事を受けていたということにはなる。

パッと見た印象としては花森らしくはない。ただ「新生社」という白抜きの文字が花森かもしれないと感じさせるということはある。上記の新生社本などの文字と比較してみると、一点、大きな違いがあった。本書以外はすべて「社」を花森は「示+土」で書いているのだ。また「學」も「学」(『日本文学の諸問題』)としている(ただしこれは『肉體の文學』という例もあり即断できないが)。結論として、何か確かな証言が出て来ないかぎり花森装釘と見るのは難しいと思う。牛津様、以上が小生の考えです。


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# by sumus2013 | 2016-12-02 18:16 | 古書日録 | Trackback | Comments(3)

花森安治装釘集成完成記念トーク

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花森安治装釘集成完成記念トーク
2016年12月10日(土)午後5時〜 入場無料・予約不要

『暮しの手帖』編集長として知られる花森安治には、装釘家・イラストレーターとしての大きな側面がありました。中学生のころからすでにその才能は開花をはじめ、買い求めた文学書を母にもらった端切れで装本し直したといいます。松江高校に入ってからは文芸部の『校友会雑誌』を編集・レイアウトしていますが、その世界的な視野をもった斬新なデザインは高校生のレベルを超えており、今日の目で見ても驚かざるを得ません。『花森安治装釘集成』は、元暮しの手帖社の編集員だった唐澤平吉氏のコレクションを中心として、そんな花森安治の戦前・戦中の珍しい装釘本から、戦後、暮しの手帖社におけるほぼ全ての雑誌・単行本、および親しい人々のために引き受けた他社の装釘本まで、およそ500タイトル、約1000点のカラー図版で構成されており、まさに決定保存版となっています。花森の装釘作品をスライドで見ていただきながら、制作実務にあたった林哲夫が本書のレイアウトの過程で感じた花森デザインの素晴らしさを語ります。

ギャラリー島田B1F


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# by sumus2013 | 2016-12-02 17:25 | 装幀=林哲夫 | Trackback | Comments(0)

ヴァン・ゴッホの道

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林哲夫作品展 ヴァン・ゴッホの道 オーヴェール・シュル・オワーズ
2016年12月10日(土)〜21日(水)
12時−19時[火曜日18時まで/最終日17時まで]

ギャラリー島田deux
http://gallery-shimada.com

ゴッホ村に古本屋がありますよ、そう教えられて、ムラムラッと行きたくなった。ゴッホ村というのはパリの北方にあるオーヴェール・シュル・オワーズのことである。ゴッホが自ら命を絶つまでの二カ月間に七十点もの作品がここで制作された。2015年10月のある日、パリ北駅から列車に揺られて一時間弱、オーヴェールに降り立った。昼前だったため駅舎のとなりにある古本屋はまだ開いていなかった。時間つぶしにゴッホ兄弟の墓を詣でた。絶筆と言われる「鴉のとぶ麦畑」が描かれたとおぼしき道に立って、耕された大地だけが露出している風景をじっと眺めた。道端に落ちていた胡桃をひとつ拾って持ち帰った。古本屋は思ったほどではなかったが、麦畑の風は今も私のなかに吹いている。(林哲夫)

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# by sumus2013 | 2016-12-02 17:24 | 画家=林哲夫 | Trackback | Comments(0)

ヒトハコ創刊号

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雑誌『ヒトハコ』の創刊を記念して、
関西でも編集発行人・南陀楼綾繁のトークツアーを開催します。
今回は大阪、京都、兵庫の3か所です。

~南陀楼綾繁さんが語る~
「本と町と人」をつなぐ一箱古本市の楽しみ


2005年に東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)エリアで始まり、今や全国に広がっている『一箱古本市』。その発起人で編集者・ライターの南陀楼綾繁さんにお越しいただき、『「本と町と人」をつなぐ一箱古本市の楽しみ』と題してトークイベントを開催します!
是非、みなさまお越しください!!

南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)
1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。2005年から谷中・根津・千駄木で一箱古本市を開催する「不忍ブックストリート」代表として、各地のブックイベントに関わる。「一箱本送り隊」呼びかけ人。2016年秋、雑誌『ヒトハコ』を創刊。著書に『谷根千ちいさなお店散歩』『ほんほん本の旅あるき』ほか。


〇日時 12月18日(日)13:00~15:00
〇場所 
みつづみ書房(兵庫県伊丹市伊丹1丁目13-20 ベランダ長屋1F)
〇定員 20名(先着順)※お子様連れでのご参加はご遠慮ください。
〇参加費 1,000円
〇申し込み facebookイベントページより参加ボタンを押していただくか、メールでお申し込みください。(お名前、お電話、メールアドレス必須。12/18南陀楼綾繁トークイベント参加とお書き添えください。 info@mitsuzumi-shobo.com)


会場では『ヒトハコ』創刊号を販売します。
『ヒトハコ』公式サイト
http://hitohako-magazine.wixsite.com/hitomag



***


『「本と町と人」をつなぐ雑誌 ヒトハコ』創刊号(書肆ヒトハコ、二〇一六年一一月一〇日、表紙イラスト=ますこえり)。南陀楼綾繁氏が一箱古本市の雑誌ヒトハコを創刊した。これまでずっとヒトハコ仕掛人としての大役をになってきたわけなので遅きに失した感もあるが、まずは創刊を祝いたい。内容もじつに賑やか、どのページを開いても本と人と街そしてヒトハコの話題ばかりだ(当たり前)。東北や熊本など被災地と本の関係も教えられところが多い。平和に貢献する一種の草の根ムーヴメントと言っていいだろう。これは「もう世界に広げよう、ヒトハコの輪!」と叫ぶしかない。この雑誌を継続させつつヒトハコ伝道人としてさらなる頑張りを期待したい。

《誰にたのまれたわけでもないのですが、ずっと一箱古本市をテーマにした雑誌をつくらなければと思ってきました。「ココにこんなに面白い人たちがいるぞ!」というのを紹介したかったからであり、個人的には、これまでイベントのゲストとして招いてくれた各地の人たちへの恩返しでもありました。》

《読書はきわめて個人的な体験です。その一方で、一箱古本市はいろんな人が一緒に本を愉しむイベントです。個人の本と共有される本。その両方を、この雑誌では扱っていきます。》(南陀楼)

販売店情報などは下記をごらんください。



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# by sumus2013 | 2016-12-02 17:20 | おすすめ本棚 | Trackback | Comments(0)

展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」

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「展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」」を京都工芸繊維大学の工芸資料館で見た。石原輝雄・純子コレクションである。

展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」

2016-11-23 マン・レイへの廻廊[マン・レイと余白で]

およそ六十点のマン・レイ展のポスターが三室にわたってゆったりと掛け並べられているのはちょっとしたスペクタクル(見モノ)である。第一室はマン・レイが本格的に活動を始めたフランスにおける展覧会のポスター。一九五四〜八一年、十七点。いちばん広い第二室はフランス以外のヨーロッパとアメリカで開催されたポスター、一九六六〜二〇〇四年、二十六点。そして第三室が日本におけるマン・レイ展のポスター、一九八一〜二〇一〇年、十五点。

このポスター展、いろいろな見方ができる。小生はまずざっと見て、戦後においてマン・レイが有名になっていく(認められていく)過程がたどれるように思った。そういう意味では日本は一九八〇年代になってから。これは遅い評価だと言えよう。ただその後は矢継ぎ早に開催されている。そのあたりが日本流なのだろうか。

またポスター・デザインの変遷として見ても面白い。フランスのシンプルな二色刷のポスターと日本の凝りに凝ったポスターと対比してみるのも妙である。マン・レイの作品は何をとっても「絵」になる。デザイナーとしては扱いやすい作家ではないかなと思う。

上のポスターはローマで一九七五年に開催されたマン・レイ展のもの(この絵はサドの肖像)。じつはパリの古本屋で安く売っていた。これはいいと思ってお土産に持ち帰った。もちろん石原氏は所蔵しておられたが、何枚あってもいいでしょう、こういうものは。実際、ここに展示されているのは石原コレクションの全貌ではなく片鱗に違いない。まだまだ何度でも別ヴァージョンのポスター展を開催して楽しませてもらえるだろう。それはともかく本展は十六日まで! 必見です。

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帰宅途中に善行堂へちょっと寄り道。「なんか、いい本ないの?」とわがままな質問。「いい本て…」といいながら夢二表紙の『若草』などを出してくれた。いいじゃない。


***


工芸繊維大学の校内にこんな注意書き……もうほとんど実は落ちた後のようだったが、それでもいくつかブラブラしていた。

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# by sumus2013 | 2016-12-01 20:08 | 雲遅空想美術館 | Trackback | Comments(2)

ノーベル文学賞

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柏倉康夫『増補新装版 ノーベル文学賞 「文芸共和国」をめざして』(吉田書店、二〇一六年一二月一日)が届いた。前著が二〇一二年一〇月だから早いものだ。その間にマンロー(カナダ)、モディアノ(フランス)、アレクシエーヴィチ(ベラルーシ)、そしてボブ・ディランが受賞している。前著を紹介したとき偶然にもバーナード・ショウが受賞を固辞した話題を取り上げたのだが、今年は例の貰うのか貰わないのかはっきりしないディランの態度が注目だった。受賞の記念講演をしないと賞金は貰えないらしいが、これまたするのかしないのかはっきりしない。本書では「増補新装版 あとがき」にボブ・ディランへの授賞についての波紋が取り上げられておりひとしお興味をひかれた。

《隣室の扉があき、スウェーデン・アカデミーのノーベル文学賞委員会の事務局長サラ・ダニウスが発表会場にあらわれて、手にした紙ばさみを開いた。
 まずスウェーデン語で今年のノーベル文学賞の授賞理由を述べ、その後で「ボブ・ディラン」とアナウンスすると、取材陣からどよめきが起こった。

そしてサラ・ダニウスは発表後テレビのインタビューでこう発言した。

《「押韻と鮮やかな光景を描き出す歌詞は彼独自のものだ。過去にさかのぼれば、ギリシアのホメロスやサッフォーは〔朗読などで〕詩を聴き、楽器と一緒に吟じられることを前提に詩的な文章を書いた。ボブ・ディランも同じだ。私たちはホメロスやサッフォーをいまでも読んでいる。彼もまた読まれるし、読まれるべきだ、彼は英語の偉大な伝統のなかの偉大な詩人だ」と讃えた。

これに対してさまざまな意見や感想が飛び交った。チリのバチェレ大統領やアメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツは授賞に対して賛意を表した。一方でフランスの作家ピエール・アスリーヌは

《「ディラン氏の名前はここ数年頻繁に取りざたされてはいたが、私たちは冗談だと思っていた。今回の決定は作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだが、だが〔文学〕はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う」と辛らつに批判した。》

詳しくは直接本書を読んでいただきたいが、ヴェルレーヌが「詩に音楽の富を取り戻そう」と宣言し、マラルメは

《音楽と言葉と仕草の総合芸術をめざすワーグナーの楽劇に対抗できる詩の創造を真剣に訴えた。
 ノーベル文学賞がはじまったとき、すでに詩人たちはあえて音楽と手を切ることで、詩という表現手段を一層強力なものにする努力を積み重ねていた。スウェーデン・アカデミーはこうした文脈のなかで、今回のボブ・ディランへの授賞を決めたのである。

というフランス詩にとりわけ造詣の深い柏倉氏ならではの感想に重みがある。

では誰がディランに決めたのか? スウェーデン・アカデミーは定員十八。このなかの五名が委員会を作り、世界中の有資格者に推薦の依頼状を送る。届いた推薦のなかから第一次リストが作られる。候補者はおよそ百五十人ほど。委員会はリストを元に比較的早い段階で十二、三人に厳選する。これが第二次リスト。そしてそこからさらに第三次リストの五人前後に絞られ、これをアカデミー会員の全員によって検討し、最後に投票が行われる。最終的には多数決だそうだ。

学が紙を離れて飛翔し浮遊している現代、ある意味で文学はホメロスの時代にまで後退しているとアカデミー会員たちは考えたのかもしれない。いや単にディラン世代だっただけなのかも……。

とにかく座右に必需の一冊。文学の世界は限りなく広い。

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# by sumus2013 | 2016-11-30 20:37 | おすすめ本棚 | Trackback | Comments(0)

世界最大?

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『花森安治装釘集成』を呈上した方々よりお礼のメールやお便りをいただいている。そのなかで反響が大きいのはこの謹呈箋。本体と同じB5サイズでしかも「謹呈」の文字は黒マットの箔押しなのだ。いまだかつてない(かもしれない?)謹呈箋なのである。

"謹呈"が短冊ではなく本と同じ大きさであるのは、本書に自信あり、とのメッセージとも受け取りました。

と言って下さる方もおられた。ありがたいことだが、実のところ、これは紙が余ったための窮余の策なのだった。この謹呈箋は表紙と同じGAファイルという銘柄である。表紙にこの紙を指定したところ、印刷所からB5判の取り都合が悪くかなり大量のロス(すなわち紙の切れ端)が出てしまうと言われた。そこでみずのわ社主が「謹呈箋にしてはどうです?」と提案してくれたのはいいが、普通の謹呈箋サイズでは厚みがありすぎる。ならば「本体と同サイズにしよう!」、ただしB5判にカットしてしまうと厚さがあるため普通の小型印刷機にかからないそうで、それなら文字も箔押しでとなり、このような形に落ち着いたしだいである。

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紙の取り都合ということで、たまたま池島信平『雑誌記者』(中央公論社、一九五八年一〇月六日、装幀=花森安治[装釘ではなく装幀と印刷されている、念のため])をめくっていると次のような話が出ていた。池島は昭和八年文藝春秋社入社である。花森とも親しくしていた。『文藝春秋』が復刊した昭和二十一年頃のこと、紙が値上がりして途方に暮れた。闇で入手しなければならなかった。

《ヤミ紙といえば、当時のヤミ屋のことを思い出す。ほとんどのヤミ紙は第三国人の経営の新聞社から出たものである。新聞に対する紙の配給は当時、順調であり、ことに第三国人の新聞社は大威張りで公定価格の紙を獲得し、そのほとんどをヤミに流していた。》

要するに何も印刷しなくてもボロ儲けできたわけだ。第三国人……久々に聞く単語である。

《彼らとその代理人は一種の「乱世の雄」であった。いっそサッパリしたくらい商魂に徹していた。ハッキリした商売だから、こっちもその気で立ち向かえば、事はスムーズに運ぶのである。思えば彼らにずいぶん儲けられたものだが、また彼らのためにわれわれの雑誌も発行をつづけることができたのであるから、考え方によっては一種の恩人である。彼らは今、どうしているだろう。大儲けした彼らが、韓国や、台湾に帰って、朝鮮戦争や中国の内戦でクタバッていないことをわたくしは祈る。》

これらのヤミ紙は主に新聞の巻取用紙なので『文藝春秋』のような雑誌を刷るにはこの端を何十センチか切らなければ、印刷の輪転機にかからない。そこで呼ばれたのが何と「木樵」であった。

《まことに妙な取り合わせだが、実はこの木樵はわれわれにとって大へん重要な人物だったのである。それは新聞巻取を雑誌用のサイズに切るためである。紙は木材パルプから造られるが、巻取紙のようになると、これは紙ではあるが、むかしの木材にかえったかと思うほど固く重い。これをノコギリで横に断ち落すということは木樵でなければできないのである。彼はただちに凸版印刷に案内され、そこで毎日作業に従事した。》

この凸版印刷は板橋工場のことである。なんとも不思議な光景だったろうと思わざるを得ない。

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# by sumus2013 | 2016-11-29 21:19 | 装幀=林哲夫 | Trackback | Comments(2)

山家秋

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もう十一月も終わろうとしているが、遅ればせながら今月の短冊を(淀野は別にして)。

 山家秋
 のかれ来ていは岩本の中々に
 身をおく山の秋そ悲しき 長隣

と、このように読んでみた。いは(者)岩木……かと思ったが「岩本」(巌)ではというご指摘をいただいたので、なるほどと訂正した長隣(ヘンとツクリが逆)は有賀氏。画像検索すると他にもいくつか短冊が見られる。歌人の家元だけにおそらく相当な数を残したものと思われる。

ありが(あるが) ながちか
幕末・明治の歌人。大阪の人。長雄の父。号は情新斎。歌道の家に生まれ、柿本人麿を尊崇した。明治39年(1906)歿、89才。》(コトバンク)


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# by sumus2013 | 2016-11-28 20:23 | 雲遅空想美術館 | Trackback | Comments(2)

河童

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矢部登さんの『田端人』第二輯には細川書店の『河童』も出て来る。

《芥川龍之介が「河童」を発表したのは昭和二年三月の「改造」。
 吉田泰司がその批評を「生活者」にのせたのは翌月。倉田百三の編輯、岩波書店の発行であり、吉田は創作月評を受けもっていた。
 それを読んだ芥川は四月三日朝附で吉田泰司あて書翰をしたためる。》

この書簡は全集にも収められ芥川研究の重要な史料となっているそうだ。

吉田泰司はそのとしの七月、旅の空で芥川龍之介の訃報を知る。返事もかかず、会いもしなかった吉田は、死なれてしまったという、とりかえしのつかぬ淋しい思いをいだく。芥川書翰の一行にはこうある。
「あらゆる『河童』の批評の中に、あなたの批評だけ僕を動かしました。」》

《「河童」を読んだのはいつであったろう。「河童往来」の余韻のなか、読みなおそうか。よむんだったら、せんに読んだ細川書店の本がよい。》

ということで細川書店版『河童』。左が昭和二十三年一月二十日再版。右が昭和二十一年八月二十日初版(函がある)。敗戦直後の発行(細川書店の処女出版)なのに初版の方が紙質がいいのは用紙に備蓄があったのであろう。

小説の主人公「僕」は山中で河童に出会い、その後を追ううちに河童の国へ入り込んでしまう。そして人間世界にかなり似ているその異界にだんだんと馴染んでいく。親しい河童も何人(何匹)かできてくる。そのなかに硝子会社の社長ゲエルがいた。そのゲエルの紹介状を持ってゲエルの友人たちが関係をもっている工場を見学して歩く。

《そのいろいろの工場の中でも殊に僕に面白かつたのは書籍製造会社の工場です。僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはひり、水力電気を動力にした、大きい機会を眺めた時、今更のやうに河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国では本を造るのに唯機械の漏斗形[じやうごがた]の口へ紙とインクと灰色そした粉末とを入れるだけなのですから。それ等の原料は機械の中へはひると、殆んど五分とたたないうちに菊版、四六版、菊半裁版などの無数の本になつて出て来るのです。僕は瀑[たき]のやうに流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、反り身になつた河童の技師にその灰色の粉末は何と云ふものかと尋ねて見ました。すると技師は黒光りに光つた機械の前に佇んだまま、つまらなさうにかう返事をしました。
「これですか? これは驢馬の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざつと粉末にしただけのものです。時価は一噸[トン]二三銭ですがね。」》

マンガみたいな世界だ。SFと言ってもいい。やがて「僕」は人間世界へ戻りたいと思うようになる。教えられて相談に行った年取った河童は、会ってみると年寄どころか、幼い姿をしていた。

《「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどう云ふ運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしてゐたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子供になつたのだよ。けれども年を勘定すれば、生まれる前を六十としても、彼是百十五六にはなるかも知れない。」》

逆まわりの時間……P.K.ディックの世界を先取りしている。




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# by sumus2013 | 2016-11-27 21:00 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)