林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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印刷と似玉堂

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『印刷と似玉堂』(似玉堂、一九三二年一一月一〇日)。京都柳馬場三条南入にあった印刷所の栞である。

似玉堂の生ひ立ちを申しますと、今を去る四十八年前、即ち明治十九年、初代三上庄治郎氏の創始したものでありまして最初は誠に些々たる一洋式帳簿店に過ぎなかつたものでありますが、常に時代の進軍に適応して、活版部・石版部を順次設け次第に膨張して参りました。大正十年には遂に従来の組織を株式会社に改めまして工場設備の一大拡張を行ひ、凸版・凹版・平版を悉く網羅した所謂綜合印刷所として一段の飛躍をなし、爾来益々発展し幸ひに現今の盛大に達することを得ました次第であります

尚ほ其の間特筆すべきことは大正四年の大正大礼の際に、印刷局臨時京都派出所を、又、昭和三年の昭和大礼の際には内閣印刷局臨時京都出張所を特に当社内に設けられ、官報号外其の他の印刷を行ふの光栄に浴し、徹底的に敏速確実よく其の責任を全うして大いに面目をほどこした次第であります。

本書に記載されている従業員数は二百有余名、据付け機械が四十余台、最近一ケ年の印刷数は四万七千四百五十連余、活字鋳造数千五百万本、貯蔵活字二億余万本、引受定期刊行物三十五種類、製本数一ケ年五十余万冊などなど。京都を代表する印刷業者であった。

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国会図書館を調べると似玉堂として以下のような出版物がある。

蘆のわか葉 上下
塚本里子 著,渡辺千治郎 編纂 似玉堂(印刷) 1900

金海貝塚発掘調査報告
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1923 (大正9年度古蹟調査報告 ; 第1冊)

大戦後の欧米見聞
小南 又一郎/著 似玉堂 1923

南朝鮮に於ける漢代の遺跡
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1925 (大正11年度古蹟調査報告古蹟調査報告 ; 第2冊)

北陸の偉人大和田翁
中安信三郎 講述 似玉堂出版部 1928

慶尚北道達城郡達西面古墳調査報告
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1931 (古蹟調査報告 ; 大正12年度第1冊)

医家人名辞書
竹岡友三 似玉堂 1931

慶州金鈴塚飾履塚発掘調査報告 本文
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1932 (古蹟調査報告 ; 大正13年度第1冊)

『The Art Flower Arrangement in Japan』1933年(昭和8年)似玉堂

Scientific Japan
prepared [by the National Research Council of Japan] in connection with the Third Pan-Pacific Science Congress, Tokyo, 1926 似玉堂 [印刷所]


しかしながら、これほど盛大であった似玉堂も敗戦後の一九四六年には日本写真印刷有限会社(戦中の企業合同により成立)に吸収合併され日本写真印刷株式会社となって今日に至っている。かろうじて命脈を保ったと言えるのであろう。

日本写真印刷株式会社の誕生


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# by sumus2013 | 2017-05-24 20:26 | 関西の出版社 | Comments(0)

骨論之部

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骨から骨へ……というわけでもないが、本日は久米桂一郎『芸用解剖学 骨論之部』(画報社、一九〇三年二月二七日)を紹介する。表紙に箔押しで記されたタイトルは『芸用解剖学 骨論部』だが扉では『芸用解剖学 骨論部』となっている。また著者についても扉では《森林太郎/久米桂一郎/同選》とあるが、奥付に記された著者名は久米のみ。「同選」は詩文のアンソロジーにおいて撰者が二人以上いる場合に用いられるようだ。合選とも。森鴎外の日記に照らすと久米の原稿を鴎外が校閲するというような共同作業だったらしい。

美術解剖学の流れ 森鴎外・久米桂一郎から現代まで』(久米美術館、一九九八年)図録の解説(伊藤恵夫)によれば、本書は明治三十六年初版で、その後明治三十八年に改訂増補版、四十一年に第三版が発行されている。雑誌『美術評論』第五号から第二十三号にわたって十五回連載された内容(連載時の筆者は「无名氏」)に雑誌廃刊のため発表できなかった部分を増補して刊行された。また次巻では筋肉から姿勢、運動に関する記述へと進む予定だったが、完成は見なかった。

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久米が典拠としたのはポール・リッシェ(Paul Richer)の『Nouvelle Anatomie Artistique』(1912,1920,1921)三冊で、本書はその第一巻(骨格と筋肉)の部分訳(?)になるのであろう。久米は明治十九年にフランスへ留学。ラファエル・コランの門に入り西洋画を学ぶとともにモンパルナスの夜学校(L'École du Soir)でデッサンに励んだが、そこで解剖学に出会い積極的に勉強を始めた。明治二十六年帰国。二十九年、黒田清輝らと白馬会を結成。この年開設された東京美術学校西洋画科において美術解剖学と考古学の講義を受け持ち、大正十五年まで三十年間講じた。


中村不折『芸術解剖学』

パリ植物園 古生物学比較解剖学展示館


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# by sumus2013 | 2017-05-22 20:40 | 古書日録 | Comments(0)

骨相学提要

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大平泰観『骨相学提要 四十二部位論』(民聲評論社、一九五三年六月一五日)。著者大平泰観と民聲評論社の住所は同じ。京都市伏見区西鍵屋町。大平泰観についてはほとんど何も分らない。本書には肩書きとして「日本易学会最高顧問」としてあり、はしがきには『人相学論』『人相部位論』『形貌学理論』『手相学論』を著したと言う。ただし国会図書館には所蔵されていない。

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大平泰観(口絵写真)


幸に私が学生時代より不知不識の間に斯学の研究に没頭してから約三十有余年である、此間に研究と体験とによつて得た、統計上より動すことの出来ないものと、殊に留学中特筆した点を加へて、至極判り易く骨相の部位を図解に示し骨相学提要と題し茲に執筆した次第である》(はしがき)

分からないと書いたものの、写真もあり住所も著書も学歴らしきものも知られるわけだから、かなり情報は豊富だとも言える。

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はしがきに続く「骨相学の沿革」を少し引用しておこう。

骨相学の発見者は当時世界に有名な墺国の解剖学の権威者医学博士ジョセラガルと云ふ人である此のガル博士は一七五七年三月九日南独逸の片田舎に生れ大学を出て墺国の皇室の侍医となり後には開業医となつてガル博士がかつて学童たりし頃より其の学友の露大なる眼球と記憶力との関係より人の心性と頭脳との関係に疑問を喚起し、其聡明と精力とを傾注

ジョセラガルはジョセフ・ガル Franz Joseph Gall(1758–1828)。

ガル博士が仏国の巴里に於て骨相学の研究所を設け次から次と新しい発見説を発表中不幸にしてガル博士は一八二八年八月二十二日(我国の文政十一年)七十二歳を一期として死亡した故に骨相学はガル博士を以て開祖とし第一世とする第二世は一八〇〇年頃よりガル博士の説に賛成し亦師事して共に研究したスブルツハイムと云ふ有名な解剖学博士であるス博士が英国に渡つて一八一五年始めてエジンバラ大学で斯学の講演をしたとき各学者より大喝采を博し其の賛同を得て同大学では此のフレノロジーを一科目として特設した

スブルツハイム(Johann Gaspar Spurzheim, 1776-1832)はガルの協力者であったが、途中で仲違いし一八一二年には独自の研究に始めた。またヨーロッパ各地を旅してフレノロジーの普及に貢献した。米国へ初めて渡った一八三二年にボストンで客死。検死解剖の後、その脳、頭蓋骨、心臓は取り出されてアルコール漬けにされ、聖遺物のように一般公開されたという(From Wikipedia)

そういえば、以前こんな雑誌も取り上げていた。

『性相』第四十三号

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# by sumus2013 | 2017-05-20 21:51 | 関西の出版社 | Comments(0)

もよおしいろいろ


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深夜の薔薇連祷 林由紀子展

2017年5月27日〜6月17日

ギャラリーロイユ
https://www.g-loeil.com


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碧梧桐へきごとうHEKIGOTOU

2017年4月8日〜5月28日

柿衞文庫
http://www.kakimori.jp


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加納光於展
《稲妻捕り》Element 1987
「言ノ葉」と色象のあわいに

2017年5月15日〜27日

ギャルリプチボワ
http://petitbois.mond.jp/index.html/index.html/top.html




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十人十色きらめいて
型染展

2017年5月30日〜6月4日

GALLERY 北野坂
http://gallery-kitanozaka.com




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平田達哉展 再生

2017年6月24日〜7月5日

ギャラリー島田
http://gallery-shimada.com



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# by sumus2013 | 2017-05-20 20:59 | もよおしいろいろ | Comments(10)

ウィンスロップ・コレクション

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『ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画』展図録(国立西洋美術館、二〇〇二年)を取り出す。先日のビアズレー体験から思い出した。たしかビアズレーのコレクションがこのなかに含まれていたはずと思ったら、まさに正解。ビアズリーはワイルドの『サロメ』のために十九点の素描を制作したそうで、そのなかの十四点が一八九四年の英語版に収録された。フォッグ美術館にはそのうちの十点が収蔵されており、この展覧会には全十点が出品された(ビアズリーの素描は計三十三点所蔵とのこと)。来歴を見ると、版元のジョン・レーンから画商のスコット・アンド・フォウルズを通してウィンスロップは一九二七年にそれらを購入している(フォッグに寄贈されたのは一九四三年)。かなり早い時期である。

アメリカでは20世紀最初の数十年間に美術品収集への関心がかなり高まっていたにもかかわらず、素描を収集するとなるとウィンスロップが収集を始めた当初は、まだ試みるものも少なく、その価値は認められていなかった。》《一方ウィンスロップと彼より少し後から収集を始めたフォッグ美術館のポール・サックスは、紙の作品の意義を認めて、コレクション形成に努めたという点においてパイオニアであった。》(ウォロホジアン「美を求める眼」より)

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本書に掲載されているステファン・ウォロホジアンによるウィンスロップの伝記「美を求める眼:グレンヴィル・ウィンスロップとそのコーロッパ美術コレクション」がなかなかに興味深い。めぼしい記述だけ拾って紹介しておきたい。

グレンヴィル・ウィンスロップは一八六四年に《特権階級の家に2番目の子供として生まれた》。父ロバート・ウィンスロップは銀行家、母はニューヨークで最も裕福な財界人でシティ・バンクの社長でもあったモーゼス・テイラーの娘ケイト。一八八二年にケイトはモーゼスの莫大な遺産の五分の一を相続したという。

ウィンスロップは家族のほとんどがそうであったようにハーヴァードへ進学。ハーヴァードで最初の美術の教授チャールズ・エリオット・ノートン(1827-1908)の講義にウィンスロップはこの上ない喜びを見出したという。《ラスキンがそうであったように、ノートンは美術研究を美の本質に向う深遠な探求として理解していた》。

「美は善よりもすぐれている。なぜならばそれは善を含んでいるからである」

こんなノートン言葉(ノートニズム:ノートン主義)がウィンスロップのノートにはビッシリ書き込まれている。ハーヴァードで最後の学期にヴェネチア美術のクラスでバーナード・ベレンソンと出会う。

一八九二年、ウィンスロップは結婚し、法律事務所を設立するも失敗に終り、一八九六年には引退してしまう。三十二歳。ところが結婚生活もうまく行かず、一九〇〇年に妻は自殺。二人の娘が残された。ウィンスロップは彼女たちを厳しく育てた(後に二人して父の家から駆け落ち逃亡)。この頃から美術の世界へ目を向け始める。

孤独な生活を続けているなかでバーナード・ベレンソンと再会、ベレンソンの指導を受けながらウィンスロップはイタリア・ルネサンス美術の収集を始める(ベレンソンから約十二点の絵画を購入)。そのかたわらアジア美術の収集にも乗り出す。《現在でも、古代中国の玉[ぎょく]と青銅器においては、ほかのどのコレクターのコレクションもこれに匹敵するものはない。

一九〇二年、マサチューセッツ州に大きな屋敷を購入。ノートンの姉の息子で近所に住んでいたフランシス・ブラードと親しくなる。彼の影響でターナーに興味を持ち、ターナーの版画を四〇〇点以上集めた。ブラードは《版画の収集において、版の質にこだわった最初のアメリカ人コレクター》と称されている。ブラードによりウィンスロップはイギリスの美術運動に関心を向けるようになりウォルター・ペイターの著作に親しんだ。ウィンスロップが美術について最も頻繁に引用している言葉はペイターの「すべての美術はつねに音楽の状態をめざす」(『ルネサンス史研究』の「ジョルジョーネ派」より)だった。ブラードは一九一三年に若くして歿した。

一九一四年、マーティン・バーンバウムと出会った。当時彼はベルリン・フォトグラフィック・カンパニーの社長をしていた。写真集や美術本を出版する会社である。その後アーティストたちとの交流を利用して作品を借り出して展覧会を企画するようになり、また上述の画商スコット・アンド・フォウルズと組んで仕事をした。その時期にウィンスロップと知り合ったようである。二人は急速に親しくなり、バーンバウムはヨーロッパでの美術品購入を一任される。

バーンバウムは彼が見つけた美術品に関する批評を添えた、膨大な数の手紙を送り、さらに作品を重要度や価格によってランク付けした詳しいリストを提示した。ウィンスロップの方はというと、番号や略号によって購入の意志を伝えるだけだった。「それを買いなさい」という文字は、ウィンスロップがロダンの見事なマリアナ・ラッセルのブロンズ像を取得するのに、唯一必要となったやりとりである。

「それを買いなさい」は「Buy one」である(掲載図版による)。バーンバウムはオークションや格式のある画廊から買うことはほとんどなかった。これと目当てを付けると《作品を得るためには、あらゆる戦術を試した》。複製と交換するなどという荒技もやったらしい。

バーンバウムが美術品を入手するときに最も成功した方法のひとつは、手放したがらない相続人やコレクターに対して、彼らの宝物は将来的に転売されることなく美術館に寄贈されるのだと保証することであった。この方法は、とくに芸術家の直接の相続人たちに効果があった。

二人は主要な何人かの作家の作品で大きなまとまりを作るという方法を取った。アングルやモロー、ラファエル前派、ウィリアム・ブレイク、そしてビアズリーなどの作品群である。

1927年、彼はイースト81丁目15番地に自分のコレクションのための新しい家を建設した。そこには彼自身の寝室と、彼の兄弟のための客間があった。この家を訪れた人は、部屋から部屋へとマニアックに並べられた美術品の数々と出会い、それはまるで象徴主義者が見る夢のようであった。

これらの空間はウィンスロップの私的な世界であり、そこにある美術品は彼の情熱のあらわれであった。ウィンスロップは細心の注意と配慮をはらい、ひとつひとつの美術品を飽くことなくつねに完璧な手書き文字で筆記し、目録化した。その目録はファイル・カード15冊にものぼり、それぞれの美術品の価格は日記に記録された。

最終的にそのコレクションはハーヴァード大学のフォッグ美術館へすべて無条件で寄贈されることになる。

コレクションもまた創作であるとはよく言われるが、やはりこのくらいのレベルじゃないと、説得力はないねえ……。

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# by sumus2013 | 2017-05-19 21:30 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

こゝろ

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漱石についてなんとか書き上げた。美術との関わりを少々。ちょうど呻吟しながら書いている最中に『學燈』春号(丸善出版、二〇一七年三月五日)「「學燈」創刊120周年記念 特集夏目漱石」を某氏が送ってくださった。ここに古田亮氏(東京藝術大学准教授)の「漱石の美術鑑賞」という一文が収められていて、おお、と思ったのだが、小生が書こうとしていたこととはほとんど重ならないのでひと安心。この文章はB・リヴィエアーの絵「ガダラの豚の奇跡」と「夢十夜」の第十夜の類似について(二〇一三年に「漱石の美術世界展」という展覧会があったのだ、知らなかった)。

もうひとつ祖父江慎氏の「不安定な文字、不安定な本ーー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」というエッセイも面白く読んだ。氏は新装版の『こころ』(二〇一四)をデザインしたときの観察から漱石が自ら手がけたその装幀の謎に迫っている。

まずタイトルについて「こころ」「こゝろ」「心」など一定しておらず、その書体も楷書体や篆書体が使われており、化粧箱には《甲骨文のような金文のような謎の古代文字》が書かれていると指摘。その文字は函のヒラに書かれている手と縦棒(上の写真左)の文字を指す。これはふつうなら「父」とか「失」とか、または「寸」と読んでみたいところなのだが、タテ棒が手の右側にあるというのは手許の字書にも見当たらない(御教示を)。祖父江氏は

もしかするとペンを手放した手、つまり「遺書」という意味の漱石創作文字かもしれません。

と飛躍して考えておられるが、あながち無視できない指摘であろう。ただし、函のヒラに大書しているのだから、当然「心」のつもりだったと考えるのが自然である。この形に出典があるかないか、それだけが問題だろう。

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函(左)と本体の背


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口絵(漱石による)


また本体表紙の石鼓文のアレンジについても面白い説を開陳しておられる。

漱石の下絵をコンピュータで起こしてるときに、面白いことに気づきました。表紙を伏せて開いて見たときの右上、つまり表四の最初の目立つ場所に「馬」の文字があります。それから背の著者名の下の目立つところには雄鹿と雌鹿のふたつの「鹿」の文字が、書かれています。たまたまかもしれませんが、併せて「馬・鹿」です。「馬鹿」といえば、この作品のキーワードでもあります。

「向上心のないものは馬鹿だ」と友達のKから言われたことが悲劇(?)の発端になることを指す。これもまたあながち軽んじられない推論である。漱石ならやりかねない。

これらの他にも、どうして岩波書店から出版したのか? どうして自分で装幀したのか? という謎も残っている。

もしかするとこの作品を、言葉のように、なるがままに委ねてみたかったのかもしれませんね。漱石は、本になって流通するところまでの構造全体のデザインを行ったんだという気がします。

祖父江氏はこう解釈している。さて、どうなのだろうか。

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# by sumus2013 | 2017-05-18 21:46 | 古書日録 | Comments(0)

追悼・志賀英夫

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ひと月以上前に『菱』197号(詩誌「菱」の会、二〇一七年四月一日)を頂戴し紹介しようと思いながら今日になってしまった。手皮小四郎氏が寄稿しておられる「追悼・志賀英夫(大阪『柵』)」に驚いた。手皮氏は昨年の十二月三十日に『柵』の志賀英夫氏の訃を告げるメールを受け取られたとのこと。同日午前一時頃死去。告別式は一月四日。

手皮氏は荘原照子を探求する過程で志賀氏に多くの詩人を紹介してもらったという。

志賀英夫周縁の詩人たちとの邂逅がもたらしたものは大きかったが、それと共に特筆すべきは志賀さん自身の手になる編著書だった。氏のライブワークの結晶ともいえる刊行書に『戦前の詩誌・半世紀の年譜』『戦後詩誌の系譜』などがある。
 明治の世からこの方、わが国にどれほどの詩誌が生まれ消えていったか、それはどんな顔をした表紙であり、いつ創刊されたのか。発行所は何処で、編集者は誰だったか。同人、執筆者名は…。そして現在その詩誌は何処にあるのか、誰が持っているのか!
 およそ思うだけでも鬱陶しく、煩わしさの極みであるこの作業を、終生の仕事として自分に課したのが志賀英夫だった。

まあ、世の中にはそのような作業を鬱陶しく、煩わしいと感じない、いや快楽とする人も多勢いるように思うが、志賀氏のその一人だったようだ。

志賀英夫は大正十四年(一九二五)京都府の生れで、兵役も経験している。『柵』の創刊は終戦直後の昭和二一年二月と古く、誌名は当初『草原』だったが、七号から『柵』と改題した。もっとも詩誌発行のスタートは戦中に遡り、昭和十八年十八歳の歳に『若草』などの投稿仲間を誘い『草径[くさこみち]を出している。つまり氏が発行する誌名は『草径』『草原』『柵』と変遷したのである。
 井上靖なども参加した第一次『柵』は昭和二十四年一月に十四号をもって休刊、以後三十七年という長い空白を経て、月刊詩誌・第二次『柵』として復刊(昭和六十一年十二月)した。

第二次『柵』は二十七年間欠号なしに月刊を守り、平成二十五年(二〇一三)二月、三一五号をもって終刊した。

終刊後すぐ「柵通信」を二号発行し、同年十月には季刊詩誌・第三次『柵』をスタートさせた。そして三年目の夏の十二号が長い来歴を持つ『柵』の終刊号となった。『柵』の編集後記は「身辺雑記」といったが、最終号のその最後の一行は、「柵を刊行するのが、私の生き甲斐です」だった。

小生はこれまで『柵』にはほとんど触れていないが、桑島玄二の寄稿がある号に関して取り上げたことがある。検索してみるとかつての『乾河』も志賀氏の制作だった。改めて詩誌の世界に大きな足跡を残した方だと思う。


『柵』復刊第四号

『乾河』62 ED・制作=志賀英夫・詩画工房


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# by sumus2013 | 2017-05-17 20:27 | おすすめ本棚 | Comments(2)

習字手本

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『小学下等第七級 習字手本 楷書之部上』(京都府翻刻、京都書籍会社 大黒屋太郎右衛門)。刊行年は不詳。
上の写真では表紙が取れているように見えるが、おそらくこれが表紙だったと思われる。大きい朱印は「京都府学教課」、右下の朱印は「弐銭……(不明)」だから値段である

明治初期は小学校を上下に分けて、上等は十歳から十三歳、下等は六歳から九歳、在学八年としていたようだ。その時期の習字の教科書である。習字、読書、暗誦、算術の四科目がそれぞれ一級から八級まであり、「習字」では片仮名・平仮名・数字(八級)から始めて行書の日用文(一級)までを修学することになっていた。


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大黒屋太郎右衛門は今井
太郎右衛門(文政七,1824〜明治十,1877)。長門生まれ、本姓は井関、京都の今井家に入り長州藩御用達の大黒屋を継いで尊攘派を支援した。吉田松陰から強い影響を受けた。維新後、書籍業に進出、明治五年に福沢諭吉、植村正直、村上勘兵衛らと集書会社を設立し京都集書院(京都府立図書館の淵源)の運営に関わった。(コトバンク他)

「集書会社基本」

大黒屋の出版物は以下の通り(国会図書館蔵)。共同出版のみ全社の名を挙げた。

◉府縣名 1872
◉京都學校の記 福沢諭吉 1872
◉山城郡村名 1872
◉中学開業祝詞 1873
◉諸國郡名 1873
◉亰都療病院日講録 1873
◉小學下等第一級受取諸券 平井義直 1874
◉十二学要論 初篇 : 天文学 卷之1 卷之2
 ブーテーズ・モンウェル [著],原田千之介 訳 1874
◉習字帖 小學下等第1・3~7級 平井義直 1875
◉千字文 平井義直 1875
◉精神病約説 (英國)顯理貌徳斯禮撰,神戸文哉
 大黒屋太郎右衞門/丸屋善吉/丸屋善藏/島村利助/丸屋善七 1876
◉養生訓蒙 神戸文哉
 若林茂助/大黒屋太郎右衞門 1878
◉千字文備考 平井義直 編 1879
◉伏見區町名 1880
◉苗字抄 苅谷保敏 1882
◉小學物理啓蒙 巻中 田中竹次郎
 大黒屋太郎右衛門/大黒屋書舗(発売) 1883
◉食経倶瑳口授篇 : 小学修身 巻の6 青山正義 編 1884
◉山城地理誌 水茎玉菜 1884
◉小学初等科日用事項 : 一名小学生徒訓 完 田中竹次郎 編 1884
◉心性開発小学地理問題集 青山正義 編 1887
◉京都療病院新聞


次いで『小学下等第七級 習字手本 方位干支七曜名之部』(京都府蔵版、京都書籍会社 大黒屋太郎右衛門、一八八〇年六月二一日)。明治十三年、こちらはちゃんとした表紙が付いており、本文最後の頁に平井義直筆》とある。平井は春江と号し書家で教育家。英学者でアメリカにおける仏教紹介者として知られる平井金三(きんざ、1859-1916)の父。

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河原町通り二条下ル二丁目はどのあたりだろう。長州藩邸は京都ホテルオークラ(河原町通り御池の東北角)の場所だったから旧藩邸の一部だったか(?)。値段の朱印は「弐銭二厘」と読める。

読者の方より御教示いただきました。樋口摩彌氏の論文「明治前期の情報通信をめぐる「近代都市京都」の形成〜三条通の新聞社と洋館建築より〜」に明治二十一年の地図が出ており、そこに「今井大屋太郎右衛門」の所在地が明示されている。それによれば河原町通り沿い、京都ホテルの南方にある聖ザビエル天主堂の真向かい(ということは現在のキクオ書店のあたり?)である。当時はまだ御池通は寺町通から河原町通まで真直ぐ突き抜けていない(むろん拡幅もされていない)。

三条通の新聞社と洋館建築より



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# by sumus2013 | 2017-05-16 21:15 | 関西の出版社 | Comments(0)

1ダースの箱展

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2017年6月6日〜6月28日
ウィリアムモリス

珈琲&ギャラリー東京都渋谷区渋谷1-6-4 The Neat青山2F
開廊時間 12:30 -18:30
休廊日:日曜・月曜・第3土曜日[17]


BOXアートの展覧会にお誘いいただきました。一点出品しております。「箱」の作品というのは予想外に難しかったです。新味を出したいと努力したのですが……さて、どんな仕上がりになっているのか、ぜひ会場でご覧ください。

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# by sumus2013 | 2017-05-15 20:38 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

碧梧桐へきごとうHEKIGOTOU

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同展ちらしより


柿衞文庫で碧梧桐展を見た。書家としての碧梧桐を堪能した。歿年は昭和十二年である。前衛的とも言えるし、マンガ的とも言える書風なのだが、伸びやかに風格をもって迫ってくる。

MORIS「河東碧梧桐」展

インパクトの強い作風は模倣しやすい。実際、弟子たちの作品のあるものは師匠と見分けがつきにくいくらいだ。以前〈碧梧桐は無理でもお弟子の短冊くらい手に入れたいものだ〉と書いたのだが、最近ようやく実現した。もちろん手に入れるだけならいつでも可能ながら、極力安価にと思うと、これが容易ではない。この短冊も少々イタミがある。根っからの貧乏性なので仕方がない。


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川西和露「門松や貯炭所空地ある久し」。近頃収穫の短冊ではこれがいちばん嬉しかった。和露について渡辺一考氏が『なまず』に発表された論考より年譜を編んでおく。

川西和露年譜
1875年 神戸市兵庫区東出町に生まれる。鉄材商を営む。本名徳三郎。
1907年 この頃より碧梧桐に師事。
1910年 摩耶会を起こす。玉島俳三昧に参加。玉島俳三昧とは備中の玉島で全国行脚中の碧梧桐を中心に十数名の同人が一つ宿に一週間ほど寝食を共にして催された俳三昧を指す。
1914年 第一和露句集上梓。
1915年 12月、第二和露句集上梓(短律見ゆ)。海紅同人。
1916年 12月、第三和露句集上梓(短律多し)。射手同人。
1914〜1916年 和露主宰の俳誌「阿蘭陀渡」発行。
1920年 第四和露句集上梓。碧梧桐外遊に贐けして。
1925年 10月、第五和露句集上梓。碧梧桐銀婚式を祝して。
1938年 和露文庫俳書目をひむろ社より上梓。
1944年 須磨月見山へ転居。和露荘と名づく蔵書の散逸を恐れ、古俳書を天理図書館へ収め、明治以後の活字本を神戸市立図書館へ寄贈。
1945年 死去。享年七十一。

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# by sumus2013 | 2017-05-14 20:09 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)